Oct 18, 2005

「ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100」(ナンシー関)

出てるもん全部をこよなく読んでるマニアなワタクシでありますが、「ナンシー関のこの1冊」ってのは、どれがそーなんやらわからんのです。なので週刊朝日連載の「小耳にはさもう」のシリーズから抜粋されたこいつを引っ張り出してみました。実際は「耳」シリーズで何冊も出てるんやけどね。「ベスト版」ってやつっすね。帯には「集大成」って書いてあるっす。

ナンシー関と言えば「消しゴム版画家」で「テレビに出た人評論」です。代わりになれるよーな人はまだいない感じっすね。でも今はブログ全盛なんで、素人さんがそれっぽく書いてるよーなんはよく見かけます。「ナンシー好きやったんやろな」みたいな。でも程遠いけど。あの「潔さ」と独特の「強さ」は、「週刊朝日」ちう「金出して読む人用の文章」ってな重荷を背負って出てきたもんなんかなー。

「テレビに出た人評論」ちうのはワタクシが勝手に決め付けてるもんでありますが、ナンシー関の目線は常に「テレビ画面を通して見えてるもの」です。テレビに関する評論はいろいろありますが、「人」を対象にした評論は「テレビではこー見えるけど、実際はこんな人」ってな紹介(または中傷)が大半で、その芸能人に興味がないもんとしては、誉めてるのを見れば「頼まれたんかな」と思い、けなしてるのを見れば「嫌いなんやな」としか思えなかったのであります。

その点「テレビで見たもの」だけから分析してるってのは、かなり信頼性が高いし、そのテレビを見て「なーんかやな感じ」って思ったもんに関して「こーゆー発言をしてるちうことは『ワタシはこーゆー人』って演出してるんやけど、見てる側は『そーは思っていない』ってとこで、変な違和感になってる」って説明してもらえると、「なーるほどね」と納得しちゃうのであります。

ワタクシの思う「やな感じ」ってのは、「『面白い人』扱い(テレビ)」VS「そんなに面白いと思わない(ワタクシ)」とか、「『かっこいい人す』扱い(テレビ)」VS「そんなにかっこいいと思わない(ワタクシ)」とか、「『美人』扱い(テレビ)」VS「そんなにキレイと思わない(ワタクシ)」とか。出演者(作り手の演出の場合もあり)の意識が、見てる側と大幅にずれてる場合、それを指摘せずにはいられなかったとこが、ワタクシの「よー言うてくれましたー」って気分とシンクロしてたのであります。

ちなみにこの本にあるネタで、ワタクシが「そーそーそー」ってなったのは、「泉ピン子がバラエティ番組で変な仕切りを見せること」、「大橋巨泉がチマチマテレビに出てくること」、「田村亮子のかもしだす違和感」あたりかなー。テレビでは見てなかったけど「長嶋一茂の不思議発言」とか「キャスター時代の生島ヒロシの変な気取り」とかもツボでした。

「小耳にはさもう」シリーズ以外にも「何をいまさら」等々の文庫も数々。もうどこで読んだネタかも忘れたけど、定期的に必ずどっかに書いてた「何故か毎年報道される(当時は)西田ひかるの誕生会」とか「日本アカデミー大賞でのモリシゲのアヤフヤな行動と言動」とか「『シベリア超特急』と水野晴郎」とかは、タイトル見ただけで「きたー」って嬉しかったりしたもんであります。「日本アカデミー大賞」なんかモリシゲだけを目当てに見てたもん(なのでナンシーが死んでからは見てない)。

ってなわけで、「ナンシー関を知ってるよ」ちう人には、それこそ「何をいまさら」なことを書き倒したわけですが、「読んだことないねん」ちう人はこれ1冊だけでも読んでおくことをお勧めしときます。ネタ的には古いけど読み応えはあるっすよ。

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...
WriteBacks

たったいま「トリビュート特集・ナンシー関」というムック本を買ってきました!リリーさんと町山さんの対談「ナンシーが今いたら...」を読むのが楽しみ。

Posted by ゆ−びっく at 2005/10/22 (Sat) 11:17:52

何かその本見たことあるっすー。
立ち読みして終わりにしたんやったかなー?
今度発見して、目新しいこと書いてるか、またチェックしますー。

Posted by やまわき at 2005/10/23 (Sun) 23:41:21

ナンシー関

 今さらですがナンシー関を初めて読みました。面白くてたてつづけに8册読みました。観察の鋭さと、笑いに対するバランス感覚が突出しています。松本人志も一目置いていたくらいです。業と欲の最大公約数である芸能人を「面白いか面白くないか」という観点で見事に分析しています。特に森繁久弥に関する文章は言い得て妙です。いつ死んでも天寿を全うしたと言われるであろう森繁が、自分の老い先や生死を口にすることでギャグとして昇華される、というナンシー関の見解に、私はぽんと膝を打ちました。実際、先日の久世光彦氏の葬儀の時もやっぱり森繁は森繁でした。森繁の中の森繁とでもいいましょうか。近年ますます、知人の葬儀は森繁にとって最高の花道となっています。全人類が死んでも森繁は死なない気すらしました。
 人を斬る、つまり分析するというのは、その対象が周知であればあるほど切れ味を増します。ナンシー関の場合は、そのポテンシャルが高い芸能人という偶像から、偶像であるが故の悲哀や滑稽を抽出するのに長けています。私がまちゃまちゃ(摩耶)という芸人にいまひとつ物足りなさを感じるのは、ナンシー関のように、大衆が知っている特定の人物を標的にするのではなく、不特定多数の匿名を射程内にいれようとするため、その破壊力も落ちるのだと思います。しかし特定の人物を標的にする分、その反響・反撃も増大してしまうので、デーブスペクターに反論されてもさらに反論仕返すだけの分析力と覚悟を持ったナンシー関だからこそできた「芸」であったと思います。



Posted by みやここうじの世界 : diary etc at 2006/03/20 (Mon) 09:58:51

adipex

Posted by adipex at 2006/07/27 (Thu) 18:59:13
TrackBack ping me at
http://www.yamawaki3.com/blog/blosxom.cgi/book/20051018_1.trackback1
Post a comment

writeback message: Ready to post a comment.